2022.01.2112:00
闥也上京物語
忘れもしない、2014年1月16日。
新大阪駅から新幹線片道切符を買い、東京へ。
「絶対に大阪には戻らない」と家族と地元の奴らに宣言した。戻らないというのは地元が嫌いだからじゃない。大好きだから。大好きで安心できるが故に甘えてしまいそうだからだ。本気で音楽で勝負するため。
大阪でも十分なのだが、知らない土地に身を置いて活動する方が未来が見えそうだったから。
当時サポートしていたバンド5つを辞めて、当時大阪で3年付き合っていた彼女も置いてきた。
バンドメンバーからは寂しさが伝わり、駅まで送ってくれた彼女の目には涙が溢れていた。これが本当のさよなら。
少しの寂しさと、自分を求めてくれる人が居ることの嬉しさ。あの不思議な感覚を今でもハッキリ覚えている。
時間を遡ること2010年12月。
当時"人生を懸けて"本気で活動していたバンドがあった。そのバンドのボーカルの父親が他界してしまう。自ら命を絶ったとの知らせ。ちょうど全国ツアーから帰り、絆もグルーヴも固まり、乗りに乗っていた時期。決まっていたライブも全てキャンセルし、活動休止に。歌を歌う彼女のそこはかとない哀しみを俺たちでは拭えなかった。
世の中不思議なもので、そこから不運は続く。
ギタリストが逮捕された。犯罪をおかしてしまった。
戻ってくるまで待とうと決めたが、彼は俺たちの元へは戻ってこなかった。連絡も取れない。
合わせる顔が無いのだろう。馬鹿なやつだったが、本当の馬鹿だとは思っていなかった。そんな奴だが、未だにそいつの腕を越えるギタリストに出逢ったことがない皮肉。
色々と重なりバンドはもうボロボロ。俺のメンタルも限界だった。本当にこのバンドは楽しかったから。
専門学校の同級生で、全員同い歳で、見ている方向も一緒。言いたいことも真正面から言える。心の底から笑える。全員が尊敬しあっている。
こんなバンドを経験してしまったもんだがら、色々とバンドをやってみても何かが足りない気がしてならない。
時間が経ってやっと気づく。なるほど、あのバンドが奇跡の塊だったのか…と。
色々な人に惜しまれながらバンドは解散。
解散ライブも出来ず、悔やみきれない日々がやってくる。
解散後は毎日無気力でボーッとしていた。人間不信にもなり、誰とも会いたくない。音楽も聴きなくない。
今思えばあれはうつ病だったのかもしれない。自分には無縁だと思っていた。こんなこともあるのか…と。
半年ほど無気力な日々が続いたが、嬉しい話が来る。
バンドを観ていた知っていたミュージシャンからのサポートドラムの依頼だ。
自分の人生を見つめ、求めてくれる人が居るならばやるべきだ。と決意を固める。
そこからは5つほどサポート現場を掛け持ちしてライブへ復帰するようになる。
ここで1つの新しい価値観が生まれる。「自分のバンドは最高だけど、ドラムを叩くことに垣根はない」。
やはりどう考えてもドラムは楽しかった。理由は簡単で、必ず人に褒めてもらえるから。叩いてるだけで楽しいというのは当たり前として。
ドラム以外の知識や常識・秀でていることなど、本当に何1つとしてない自分には天職だと思った。
自分のオリジナルバンドが出来なくとも、ドラムを求められる・叩ける喜びを感じながら2年ほど活動を続けた。修行も兼ねて死ぬほどライブをした。自分のドラムとは。音楽とは…
そして迎えた2014年1月。数々のサポート現場仕事を経て自信がついた闥也は東京へ行くことを決める。
上京する2週間前はお世話になった人や音楽仲間、親友たちに会いに行った。感謝を伝えるのと、宣言をするため。
何年も住んだ街には思った以上に仲間が居て、ぶっちゃけ2週間では足りなかった。
絶対にやってやる。でかい結果を残してやる。フェスにも出て、武道館にも立って、海外にもツアーで行って、写真送るからな!覚えとけよ!
そんなことを告げた。もちろん笑うやつも居たが、お前なら本当にそれが出来ると信じてる。と静かに言うやつも居た。少し泣いた。
武道館には未だに立ててはないが、2つは叶った。もちろん叶えられたのは自分だけの力ではない。周りの協力とファンが居てくれたからだ。夢は叶うんだと実感した。
人生は本当に分からんけど、素晴らしい。
努力したぶん報われるとは限らないし、センスだけでは運が逃げるし。
俺にはまだまだ夢がある。9年目も東京という街を拠点に暴れてやろうと思う。
みんな、いつもありがとう。